第五章 菌類図譜 〜混沌〜
本章では、前章に引き続き、代表的な図譜を取り上げます。しかし、本章では、あえて、資料整理が行き届いているわけではないものを紹介します。
果てしない多様性をもった生物群である菌類を前に、先が見えない整理を行おうとすれば、当然結論が出せないことが生じます。判断を先送りにせざるを得なくなったり、考え直してみたり、未同定のまま残したり・・・。菌類図譜にはそのような形跡も多々見られます。
本章では、そんな思考の混沌とした形跡がみてとれるようなものを集めました。
菌番号 F.2
菌名:Helvella elastica Bull.
コメント:これが現存する最も若いF番号が付与された図譜である。熊楠は学名を与えていないがHelvellaノボリリュウ属の一種であることは明らかである(熊楠はアシボソノボリリュウと同定)。"specimen sent to Imai"とあり、日本語で「二個今井ヘ送ル」とあることから、本標本は一部はこの類の子嚢菌の専門家であった今井三子に送られたものであろう。図譜の中で顕微鏡図があるのは限られており、丁寧に観察された様子が伺える。「不要」の字は将来の出版を目指していたものか。また、1900年と1930年の採集品が同居しているのも面白い。
菌番号 F.32
菌名: Lycoperdon
コメント:ホコリタケLycoperdon属の一種と同定されたきのこ。丁寧に列をなして押しきのこ標本が貼り付けられており、ユーモラスな印象を与える。イラストもNatural sizeと添えてあり、実物大の図である。一見整然としているのだが、同じF.32が与えられたきのこがもう一つ存在しており(第4章参照)、初期には番号管理ができていなかったことが伺える。
菌番号 F.33, F.34
菌名:未同定(F.33, F.34)
コメント: F33はビョウタケ類の一種も図譜には収載されており、このシートには、さらに未同定の菌(おそらくMicrostomaのような子嚢菌)もF34として収載されている。ところが、F33という番号はスギタケPholiota属の未記載種としても記載されている。若いF番号を与えた菌には、このような熊楠自身による混乱も多く含まれており、菌の採集から図譜の作成、標本管理の流れが確立していなかった可能性を示している。第4章のF33も参照。
菌番号 F.777
菌名:不明
コメント:この標本には、きのこも記載も何もない。墨汁の四角には、かろうじてきのこのひだのようなものが見られることから考えると、白色の胞子をもつきのこの胞子紋をとろうとしたように見える。しかし、F.777の資料は他になく、全くうかがい知ることができない。
菌番号 F.1092, F.1092
菌名: Amanita caesarea
コメント:本菌は、現在ではAmanita hemibapha (Berk. et Br.) Sacc. subsp. javanica Corner et Bas. (キタマゴタケ)と同定されている。これはタマゴタケの類縁菌で、比較的多く採集されたらしく、F1092には複数の別な標本が枝番号とともに記されている。熊楠自身も類似したきのこの存在を持て余したように思える。
菌番号 F.1092
菌名: Amanita caesarea
コメント:熊楠は、標本だけを貼り付けたシートにも通常は採集地と年月日を記している。これは採集地が記されていない例外的な資料である。
菌番号 F.1092
菌名: Amanita caesarea
コメント:田辺闘鶏神社で採集され、セイヨウタマゴタケと同定された標本。現在ではキタマゴタケとされている。熊楠は、F番号を標本ではなく、種のIDとして利用しようとしたフシがあり、本菌も、同一番号で複数の異なる採集日の標本が存在する。
菌番号 F.1092
菌名: Amanita caesarea
コメント:シートの順番から考えて、この標本もF.1092であることは想像に難くない。しかし、本資料には、例外的に何も記されていない。熊楠はどのシートにも標本情報を記しているので、かなり例外的な扱いとなっている。
菌番号 F.1092
菌名: Amanita caesarea
コメント:この資料もF.1092という番号のみが記されている。
菌番号 F.1581
菌名: Armillaria tumulosa Minakata
コメント:闘鶏神社で採集されたナラタケArmillaria属の未記載種である。種小名のtumulosa(墓の)は採集地に由来するものであろう。それにしても本菌の彩色図はかなりラフである。色があせたせいもあるが、全体の図はかなり雑な印象がある。学名も書き直した跡があり、文字もかなり走り書きのようで、追加で書き足した跡がある。
菌番号 F.1581
菌名: Armillaria tumulosa Minakata
コメント:続く2つの資料は、前掲の図譜の標本である。群生していたせいか、かなりの数が採集されている。記述によれば、1913年の10月12日、16日のそれぞれで採集されたものらしいが、区別はされていない。
菌番号 F.1581
菌名: Armillaria tumulosa Minakata
コメント:前掲の資料の標本の続きであるが、熊楠採集の標本のことは書かれていない。
菌番号 F.2672
菌名: Calvatia sp.
コメント:ノウタケCalvatia属の一種として、未同定のままのきのこ。かなり詳細な解剖図であり、顕微鏡的な特徴もスケッチしている。熊楠は袋状のきのこ(かつての腹菌類)に興味を持っていたことが知られており、それを示す資料である。
菌番号 F.2672
菌名: Calvatia sp.
コメント:F.2672のセットの一部。興味深いのは、その採集日付である。前掲の資料は1920年10月1日であるが、こちらは、1921年の10月1日とある。果たして、本当に1921年だったのだろうか?このような疑問を解決する上で、日記の記述を参照する必要がある。
菌番号 F.237, F.238
菌名: 未同定(F.237, F.238)
コメント:いずれも未同定のきのこであり、図も途中まで描いて辞めた形跡がある。歯状の子実層(胞子をつけるひだ)をもつ背着性のきのこと思われるがなんであったかは今後の研究が待たれる。また、このシートには、採集日が近い2つの菌が貼付されている。
菌番号 F.331
菌名: 未同定
コメント:一見、とてもリアルな図譜に見えるが、実は標本を貼付したのみで記載がない。記載らしき資料も存在しない。概していわゆるヒダナシタケ類については、熊楠は検討が浅い傾向があるように思える。これは、当時専門書が少なかったことにも一因があると思われる。
菌番号 F.516
菌名: Craterellus sp.
コメント:クロラッパタケCraterellus属と同定されたきのこ。この標本は水彩画も記載もかなりラフである印象を受ける。文字の大きさも通常よりも大きく、不安定に見える。
菌番号 F.724
菌名: Boletus luteus (L.) Fr.
コメント:ヌメリイグチ(現在のSuillus luteus。熊楠は異名のBoletus luteusを使用)。中央の図は娘の文枝によるものである(1938年採集とある)。ところが、この菌は1940年にも採集されたらしい。そこで両者を識別するため片方に(A)という記号を与えているのだが、これが最初のものなのか、後の標本なのかが分からない。また、F番号も消して書き直している(F.4581あるいは4681)が、F.4681はひだのあるきのこ、F.4581は背着性なので本菌と混同する可能性はない。
菌番号 F.812
菌名: 未同定
コメント: F.812として登録されているが、全く異なる標本(F.1245)のためにシートが利用されようとしていた形跡がある。しかも、番号も年代も消したほうが古いので、なぜ、このような情報が記されているのか理解に苦しむ。
菌番号 F.812
菌名: 未同定
コメント:前掲とセットの標本である。ほとんど記載がない。
菌番号 F.3443
菌名: 未同定
コメント:この資料とこの次の資料の図は、他の図と比べてもかなりラフである。おそらく藻類などが付着したか、植物を巻き込んで発達した古いサルノコシカケと思われる。
菌番号 F.3443, F.3443
菌名: 未同定
コメント:この資料は前掲の資料の続きであるが、標本には"a"を付けて識別してある。前掲資料と同様にかなりラフである。
菌番号 F.3603, F.3605, F.3606, F.3607, F.3608, F.3609
菌名: Lenzites (3603), Pleurotus (3605), Lenzites (3607), Polyporus (3708)
コメント:この資料は、主にいわゆるヒダナシタケ類(柄やかさをつくらず、ひだがないきのこ。サルノコシカケ類や背着性のきのこなど)を集めたもののようだが、一枚のシートにこれだけを集め、しかも、ほとんど記載がないというのは熊楠の図譜の中でも最大級の例外である。手にあまるようなグループだったのか、興味が低かったのだろうか。